自身の創作に関する考察

紙とペンで広がる世界が好きだ。そこに一定の枠を設けて、ルールを作ったりするのが好きだ。
紙とペンで頭の中の想像を明らかにする。たとえば、覚めてしまった夢のように、具象化した時点で陳腐化するものもあろう。それでも、頭の中にあるものをはっきりさせようと紙とペンに向かう。

  • THOUSAND(無印)

初めて完結させた私の創作活動の第一歩。
着手は、2005年12月3日とある。
当時、紙とペンでキャラクターを描いた。人物設定などはなく、ただ頭の中に浮かんだ画像を描くだけであった。
たまたま上手く描けたキャラクターを主人公に、当時大学の研究室に置いてあった「ローマ人の物語」をモチーフとして、王の物語を思いついた。それも、あえて悪を行う非道の王。


カエサルの言葉にある。「どんなに悪いものとされていることでも、それがはじめられたそもそものきっかけは立派なものだった」、そしてマキャベリズムの体現。
危機に対応するための手段、倫理を超えた合理性と、公共の精神。
テーマは決まった。
ただこのときはまだ、テーマを深く思考することはなく、思いつきのまま各話を組み立てていった。そのときやりたいことを優先した結果、できあがったものは矛盾だらけで、非常に醜悪だった。

  • 統一正史

約1年をかけて完結させた前作の出来に満足いかず、続編を制作予定だったがリメイクに変更した。
やりこみ性のあるシステムと重いストーリーをうまくミックスさせることを主眼においた。もちろん、前作の矛盾部分の改善も含めて。
システム、ストーリーの両面において、なるべくシンプルに分かりやすくすることを心がけた。
ただ、カスタマイズ性、やりこみ性、作りこみとシンプルさの両立は難しい。複雑であること、作りこんであることは、わかりにくさにつながる。


システムにおいては、バランスに気をつけることで、ストーリーを求めるプレイヤ、やりこみを求めるプレイヤ双方に配慮するしか手段がなかった。
ストーリーにおいては、無駄な設定を前面に出すことを止め、場面に登場する人物数に配慮した。特に、1話に関しては本当に必要な人物だけを登場させるようにした。
それでも人物数の問題は、話を追うごとに大きくなる。国家と人を描写する際に、数が必要な場面がどうしてもある。短編をつくる力が不足しているだけに、登場人物の絞込みがまだまだ足りないと感じた。


いかに長大なストーリーであっても、そのひとつひとつをみていけば短編の集合体であるように思う。プレイヤの体験時間が何時間もあるものを、ひとつの起承転結や序破急だけで構成するのは、プレイヤに制約を与えてしまう。
長編の中の短編。
淡々とストーリーが進んでしまうのは、その短編部分がしっかりしていないためだろう。大きな話の流れの中に、短く完結する短編が必要で、それが話の起伏を生み出す。


統一正史制作の途上、ペンタブを購入し、紙とペンはほとんどデジタルに置き換わった。話のプロットを考えるのも、メモ帳で行った。
1ファイルにアイデアをまとめ、プロットは各話毎。人物毎の設定、信念、心情の変化なども記入した。
各話のプロットは、次に制作する話の詳細を決め、その後の2〜3話分を簡単に追記していく形をとった。前作のように章は設けず、各国家の話もプロット次第で話数を変えた。
近傍の話の矛盾は解決したように思うが、人物の感情や行動には正当性が足りないと思っている。かれらが納得したこと、激情したこと、後悔したこと、感情にも理由があり、それがプレイヤにとって理解されなければならない。
キャラクターへの理解、つまり感情移入によって、プレイヤの「入り込み度」が変化するためだ。


2年9ヶ月ほどをかけて完結させた統一正史により、私自身の創作に関する技術と、方法論の蓄積が行えた。
プレイヤの情動を引き起こすような物語やシステム、つまりゲームとして「おもしろい」ものにはまだ至っていないように思うが、目標に近づけたように思う。

  • 創作の意義の変化

無印の頃はまだ学生で、暇な時間を埋めるための創作でしかなかった。それが社会人になり、統一正史の頃になると創作の目的が変化した。家に帰って創作に没頭することで現実逃避していたのではないか、と自答する。
ただ、その現実逃避にも効果はあった。物事を進めるにあたって、プランを練り、どうすればよいか方法を考え、行動し、プレイヤの反応をまた次に活かす。計画、実行、改善というプロセスを理解することができたからだ。
思考を整理するために、どうすればよいかも学んだ。これはあらゆる場面で役に立つことだ。


統一正史は単純な暇つぶしではなくなった。ほぼ毎日eveを開き、時間を作って制作にあたった。毎日やらなければならない、という義務感、果ては使命感、強迫観念にまで至ったかもしれない。

  • 何故創るのか

創作は、自己実現のために行っていると思う。そしてこの創作という観点において、自己実現は、自己満足と自己表現で構成されているように思う。自分というものを他者に知らせたい、評価してもらいたい、認めてもらいたい。
あるいは、自分の情動が突き動かされた既存の物語―――ゲームでも漫画でもアニメでも何でも―――と同じように、自分も情動に訴えかけるものを創りたい、そういう欲求のためだ。
それらに突き動かされた情動は、最後に寂しさに変わる。何故、自分はこのような素晴らしい世界にいないのか、素晴らしい体験をしていないのか。それがないから、悔しい。つまるところの、劣等感。そして孤独感。
劣等感や孤独感は反発力に変わる。それが創作のエネルギーに変わる。


カレッジバスケットボールコーチのジム・バルバーノの言葉で、人生ですべきこととして次の三つを挙げている。笑うこと、考えること、そして涙を流すほどに強い心の動きをすること。
物語には必ず人間が登場し、そして強い情動が表現される。笑うこと、考えること、泣くこと。最も簡潔に、直接的に表現できるのが恋愛だろう。ほとんどの物語に、恋愛の要素がある。
本能的な欲求にも近い恋愛要素は、これからも考えていくべき事項なのだろう。私にはまだ、よく分からないものであるそれを、よく知っていかねばならない。


私は、これからも生きている限り必ず劣等感と孤独感を抱く。それを解決するのは、自己満足と自己表現による自己実現しかない。創作はそれをするための一手段だろうが、しかし確実にあり続けると思っている。
紙とペンで広がる世界には、私の劣等感と孤独感を解決するものがあるにちがいない。